カテゴリ:暮らしの事( 102 )


ある方にボタンをお送りするため、紙箱の端切れにボタンをずらっと縫い付けた。
一つ一つ、穴に針を通してお隣5ミリに頭を出したらボタンの整列。ゆるんだ整列。

その糸たちがつくる後ろ姿をステッチというらしい。

馴染みのある愛らしさはかじりたくなる。
それは齧りたいステッチだった。

無事にボタンは届いた。
よかったー。

凡そ



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スーパーでぼやっとする。こう、イブやきなんとなく日常に色をつけたいと思う。積み木でいうたら、ちょっと高めの立派な建物を作りとうなるみたいに。僕は普段全然行かんお菓子作りコーナーにいってみた。ほんで、言葉の響きの好きな「バニラエッセンス」を買うた。高かった。

25日、ボンコアン開店します。お店番は僕のpère Noël であるおとんです。
ふらっと、さらっとした開店ですので、心の中でご来店いただければ幸いです。

みなさま、素敵なイブを。


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先日、友人の夢の中におふくろがでてきたらしいです。
母は白いパンでたくさんの種類のサンドウィッチをつくり、
それらを大きいお皿にたくさん並べて、僕らはそれを食べたらしいです。

大きいお皿に、おふくろは美味しい食べ物をよく並べよったなあ。
お客さんが来たときに作りよった、こんもりの塩握りタチ。
あれは美味しかったでえ

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Glenn Gould and Leonard Bernstein: Bach's Keyboard Concerto No 1 in D minor (BWV 1052)


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キレがあるねえ!
うわあーキレッキレだね!

で?
となってしまった自分がいました。
ダンスにおけるキレとはなんなのでしょう。

このピナのダンスは、
ある意味きれっきれやと思う、
冬の朝ごはんでした。



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「いつまでもあると思うな親と金」という言葉がある。
それを聞いたら「ギクッ」となる。
分かっちゅうけど、ギクッとなる。

いつまでもあるものはない。
分っちゅうけど、ないものはない。

今日、最寄りから4つ程離れた駅で降りて、そこにある八百屋に向かった。
産地直送のものしか置いてなく、にんじん1つとりんご1個を袋にいれて120円。みたいなところだ。
最近気にいっちょって、よくこういう小さい買い物をする。
そこに向かう途中に、横目でその姿を見てはホッコリする本屋があった。

大きなガラス窓2つと入り口。暖簾にはアート・スペクタクル
まず、こちらから見ると本は背の低い2段の木の斜面に並べられていて店主のイチオシが目に入る。
その後ろでは横に置かれた本が煉瓦のように壁を作っている。
背表紙がこちら側に向いているから、どんな本があるかはよーく見える。
ドガマンレイルノワールセザンヌゴッホ草間彌生
エドワード・ホッパークレージェフ・クーンズピカソピカソピカソ
あのマンレイの写真集がみたいがやけど、下から何番目かにあるき、絶望するしかない。
その壁は難攻不落、もう店というよりは、お城だった。

そこが工事していた。
ねこ車に土を山盛りにして、ヘルメットの男が出入りしている。
中を覗いてみたら何もなかった。箱だった。白い箱
現場のおんちゃんに中にいれさせてもらった。

天井もあまり高くなく、広いともいえず、むしろ狭かった。
壁の角隅も見えた。冬の寒空のように、白くて、ポカンとしてる。
お城やったのが信じられんくらいや。

いつまでもあるものはない。
一度空気に飛んでった音は二度と捕まえられないと言ったのはエリック・ドルフィー。
今度高知に帰ったら、好きなお店たちに行こう。
そう思いました。

凡そ






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万年筆を買いました。
持ち手に刻まれた文字をインターネットで調べると、
この自転車屋さんの万年筆であることがわかりました。
宣伝用やったがやろうか。
なにはともあれ、こうして万年筆の故郷が分かるこの2017年。
マジックみたいですね。

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凡そ


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蚤の市にはいろんなタイプがあります。
プロの集団をまとめたもの。
地区でまとめたもの。
一般人のフリーマーケットを扱うもの。
プロと素人がごっちゃのもの。

今日行ったのはプロの集団でした。
難点は高杉晋作だということです。
普通のメロンが食べたいのに、夕張メロンをドシドシだしてくるような。
行ってみなきゃ分からんのですが、やっぱりこのチームの蚤の市は苦手です。
でも情けない木箱が買えたので、きっと彼に会う為に僕は足を運んだのでしょう。

さて今日の蚤の市が行われた通り。
僕が生まれ育ち、20年間お世話になった家の前の通りで行われてました。
よくわからない覚悟をして向いました。
懐かしかった。でも少し苦しかったです。
小さい時に通った友達の家からの帰り道を、何年ぶりに歩いているのだろう。
信号を待っている間、自分を取り囲む道も建物も地面も、ギュッと狭まったイメージがありました。
自分が成長したからなのか。
自分が乗っていた三輪車を見て、「こんなに小さかったのか。」と驚いたことがありますが、
それのもっと広大なスケールでの体験でした。

もし前のアパートの鉄柵から子供の時の自分が顔を出していたら。
よくボーッと5階から小さい人々を眺めていた。
「ごはんでー」「はーい」
以外と変わっていない、自分の本当の中身。

凡そ









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パリに戻ってきました。
変わり変わりゆくモノは時間が決めるものなのかと思いました。

ボンコアンをがっつりと開けて感じたこと。
恵まれているということ。
遠くから、近くからお客様がこられて、何かモノをみつけて、それを買ってくださるということ。
もうそれは嬉しい。ご来店くださり、本当にありがとうございました。
僕も嬉しかったですが、何よりあの台形のお店が喜んだがやないでしょうか。

✴︎

通った歯医者さんの近くに喫茶店があるのをみつけた。
朝一の歯医者を済まし、そこでちょっと遅いモーニング食べるのがお約束。
その店主であるおばあちゃんに自分はパリからきていると伝えたら、
「そらああんた、幸せもんやねえ。」と言われた。
そのあとも何回も会話の中で言われた。
「そらー幸せや」

「パリで生まれたんですか、すごいですね」と、言われることが多々ある。
すごくない。パリで生まれただけだ。そんなフランス語もしゃべれん。
でもおばあちゃんから、幾度も「なかなかできんことで、幸せで。」
と言われて、僕はふと思った。

あ、これは幸せなのかもしれない。

境遇は、しばしば融通のきかない時がある。
風の方向は決められない。
雲が流れる速さも変えられない。
と同時に、僕が生きてきた時間や場所は変えられない。
ここに自分がいるということは、そこに時間があるということだ。
なんで自分がここにおるか分からんけど、それは風も雲も知る訳がない。
知る術もないことは知っても無駄である。
なら知ろうと思う。色々と。愛し方とか。

ここから眺める窓はきっとそっちに繋がっている。
思い、思われ、幸せもんです。

凡そ


10.29.2017松村岳





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僕は土佐弁をしゃべる。
両親が高知の人間で、パリに生まれてはみたけれど、土佐弁をしゃべる。
東京語は話せるが、東京の友達にも時々土佐弁でしゃべる。
「いまなんていったの?」通じない時がある。

今日バス停で背中をさすっちゃりゆ老夫婦があった。
さすっちゃりゆ、さすってあげている。である。

僕の中で、これはなにがなんでも「さすっちゃりゆ」である。
なぜなら、小さい時に高知のおじいちゃんの背中をさすっちゃったからだ。

懐古に導く言葉の中はやはり独特の響があって、
懐かしいのは過去なのだろうか。未来ながやろうか。

ついに高知にも秋がやってくる。
台風はこんでいいです。
ボンコアンの開店日も残りわずかです。
ゆるりとお待ちしております。

凡そ


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